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井上精工社長のずぐだれ日記

株式会社井上精工代表の井上隆が 日々思う(どうでもいい)ことをだらだらと綴っております。

第二百二十五夜~第二百二十九夜

人の巻 永く栄える法

三、推譲ということ

■第二百二十五夜 人道は譲をもととする

獣は、欲しいものを見ればすぐ取って食い、譲るということを知らない
草木も同じで、根を張ることのできるだけ、どこまでも根を張っていく
人がもしこのようにしたら盗賊となってしまうが、そうはならない
米がほしければ田をつくって取り、豆腐がほしければ稼いで手にした銭で買うのだ

人道というのは、天道と違って、譲道から成り立っているものなのだ
譲というのは、今年のものを来年に譲り、親が子や子孫のために譲る道なのだ
したがって、鳥や獣には間違っても譲る心が起きることはないのだ

人道は自然の状態ではなく、人が人のためにつくったものだから
人道ではつくるために勤めるのを善とし、破壊することを悪とする
万事自然に任せていてはみなすたれてしまう
これをすたれないように努力するのが人道というものなのだ

虎や猪などは木を押し倒し根を掘り起こし、その力は強大だが
しかし、そんなに一生苦労しても、安楽な生涯をおくれないのは
彼らが「譲る」ということを知らず、ただ自分のためだけしか思っておらず
労してもなんら成果が上がらないからなのだ

人間たるものは、知力が劣っても、力は弱くとも
今年のものを来年に譲り、子孫に譲り、他人に譲るという譲道を実践するならば
必ず成果が上がり、豊かな人生をおくることができるようになるのだ

■第二百二十六夜 湯船の教え

温泉の湯舟に腰かけながら、ワシはこんな話しをしたことがあった

「世の中には、金持ちなのに満足することを知らず
どこまでも利を追い求め、不足ばかり口にしている者がいるが
これはちょうど、大人がこの湯舟の中でかがまずに立ったまま
『湯船がばかに浅いじゃないか、これでは膝までもないじゃないか』
と怒鳴っているようなものだ
もし望み通り湯を大人の肩までつかるように深くすれば
今度は子供が入浴できなくなるのは明白なことだ」

「これは、湯船が浅いのではなく、大人がかがまないから悪いのだ
これに気付いて大人がかがめば、肩までつかって満足できるようになるのだ
なにも湯を増やすことはないのだ」

「世の金持ちたちが不足を唱えるのはこれと同じことなのだ
人は分度を知らなければ、何千万石あったって不足を愚痴ることになるのだ
それがひとたび、分度を知り守るようになれば、自然に余裕が出てきて
人を救っても余りあるようになるのだ」

「また、お湯を手で自分のほうにかくと、お湯はこちらのほうにくるようだが
実はみな向こうへ流れ帰ってしまうのだ
逆に向こうのほうへ押してみると、湯は向こうへ行ってしまうようで
実はこちらへ流れ帰ってくるのだ
少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る、これが天理というものだ」

「ところで人間の身体の仕組みを考えてみると
人の手というのは自分のほうへ向けて自分のために便利にできてるが
一方では向こうへも向き、向こうへ押しやることもできるようになっている
これが人道のもとなのだ」

「反して獣の手というのは、自分のほうに書くことができるだけで、自分に便利なだけなのだ
従って人間である以上は、他のために押し譲る道もあるのだから
自分のほうにばかり手を向けて、自分のために取ることばかり一生懸命で
向こうのほうへ手を向けて他人のために推し譲ることを忘れた者は
人でありながら人でなく、つまり獣と同じなのだ」

■第二百二十七夜 富貴を永遠に保つ道

ワシのやり方は、「譲」を重くみる
譲というのは、富貴を永遠に「保持」する方法であって
だからワシのやり方は富貴を長持ちさせる方法といって差し支えないので
金持ちは必ずワシのやり方をまごころをもって努力実践することだ

■第二百二十八夜 現代の文化は先代の人々の骨折りの成果

下野国(栃木県)のある村では風紀がひどく廃頽し
墓地も決まっておらず山林原野から田畑宅地などどこにでも埋葬し
そしてまた数年たてば墓を崩して平気で豆や麦を植えているそうだ
なので、荒れ地の開墾や水路の掘削などの工事をすると
骸骨を掘り出すことがよくあるらしい

人の骨のほとんどは腐ってしまっても、頭骨と脛骨はそのまま残っているものだ
頭は身体の上にあって、最も功労の多い頭脳を覆っているところで
脛骨は人体の下のほうにあって、身体を支えもっているところだ
生前、頭脳と身体の一番功績があったところを支えた骨が
死後百年たっても朽ちずに残っているということは感銘すべきことである

我が国の優れた人々はもちろん、孔子や釈迦なども世を去って何千年だ
しかし死後長くたってもその名は日本にまで伝えられ、今でも敬られる存在に変わりない

およそ人の勲功というのは心と身体の二つの骨折りの成果であり
その骨折りを勤めてやまないときは必ず天の助けがあるものなのだ
『荘子』に「これを思い思いてやまざれば天これを助く」とある
私欲をはさまず、ただただ心力を尽くして働くものが必ず成功するのはこのためなのだ

だいたい、今の世の中で役立っているものや、後世まで残り人々に賞賛されるものは
すべて先代の骨折りの成果に他ならないのだ
今日の世の中がこれほど富み栄え盛大なのは、みな先代が残してくれた賜物なのであって
今の世代の私たちも骨を折り努力して、次代の繁栄に貢献しなくてはならないのだ

■第二百二十九夜 他譲は効果的に行え

困窮を救う方法としては、恵むことでただ一時の窮乏を救うだけではだめで
だらけてる者も勉強するように仕向け、知らず知らず職を習い覚えさせ、さらに習い性にし
弱い者は強くし、愚かなものも職につかせ、幼いものも縄をなうことをさせ
そのほかにもいろいろと稼ぐことを覚えさせて
遊んで無駄食いしている者をなくし、おのおの業務に精を出すようにしなくてはならぬ

みだりに金や米麦を施し与えるだけではかえってよくないのだ
なぜなら、こうしたやり方では人々を怠け者にしてしまうことがあるからだ
恵んでも無駄にならないように注意して施し
人々が発奮して勉強や業務に励むように仕向けることが肝要なのだ


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やはり、「先輩からもらったものは後輩に返せ」
これに尽きると思います
そして「天は自ら助くるものを助く」
Heaven helps those who help themselves.

ちなみに、どの世界でも「くれくれ君」は嫌われますよ!

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第二百二十夜~第二百二十四夜

■第二百二十夜 はじめが大切だ

ある者に説教した折、「本日は結構なお話をこうむりありがとうございました」
と礼を言うので、さらに諭してやったのだ

「今の一言を決して忘れないないことだ
生涯一日たりとも忘れず努力すればますます繁栄するであろう
あんたの今の心を土台として、その土台を踏み外さぬようにすれば
それは仁であり、忠であり、孝であり、その成るところはたいへんなものとなろう」

「世のたいていの人々が失敗するのは『結構な話』を聞いたつもりが
いつのまにか『当たり前の話』になってしまい、その『当たり前』を土台にしてしまうからだ」

「人の財産もまた同様で、予定外に入ったものは別にして蓄えておけば
臨時の物入りやなど思いがけない支出のある時に差し支えるということはないのだ」

■第二百二十一夜 分度は徳行のもと

ワシの教えというものは、徳をもって徳に報いる道なのだ
天地の徳をはじめ、君の徳、親の徳、祖先の徳と、その受ける恩恵は広大である

これに報いるには自分の徳行をもってするということだ
君恩には忠、親恩には孝というのが徳行であり
この徳行を行うには、まずそれぞれが、定められた分限をはっきり自覚して守ることが先だ

ワシが人を教えるやり方は、まずその者の分限を詳細に調べ
おまえの家の財産はこれこれで、収入がこれこれで、借金がこれこれだから
差し引きして生活費として使える額を明らかにし
その額で一年間やっていけるように倹約努力して暮らしを立て
少しでも貯蓄するように勧めるのだ
これが人の道というものであって、心の眼がくらんでいる者を助けるやり方なのだ

つまり、収入を計算して自分の分限を定め
音信、交際、贈答、義理、礼儀などはその範囲内ですべきなのだ
できなければやめざるえを得ないし、ケチだという者がいても
それは言うほうが間違っているのだから気にすることはないのだ
このことを良くわきまえ、惑ってはならぬ
このように自分の分度が立たないようでは、徳行などとても立てられないのだ

■二百二十二夜 まず分度を定めよ

草を刈ろうとする者は、草に相談する必要はなく、自分の鎌をよく研げばよい
髭をそろうという者は、髭に相談しなくてもよく、自分の剃刀をよく研げばよ
ただしまっておいて刃が研がれたためしはないのだ

鋸の目を立てるのは木を伐るためであり
鎌の刃を研ぐのは草を刈るためなのだ
鋸の目をよく立てれば伐れない木はなく
鎌の刃をよく研げば刈れない草はない
だから、鋸の目をよく立てれば、もう木は伐れたも同じだし
鎌の刃をよく研げば、もう草は刈れたも同然だ

だからワシの教えの根本である、分度を定めるということができれば
天下の荒れ地はみな開拓されたもおなじなのだ
天下の借金もみな返済されたも同然なのだ
なぜなら、分度をまず定めるということが国を富ます基本だからだ

■第二百二十三夜 昼休んで夜働く

某藩の家老だった某氏が、官職にあったときは贅沢三昧をしていたが
家老職を辞めてからはひどく困窮しているという

これは、登用されたときに自分の分限のうちで暮らさなかった過ちから起きているのだ
権勢盛んな官職にあり、富も思うままの時にこそ、礼譲・謙遜を尽くさねばならぬ
そして退職後に遊楽・驕奢に暮らしても何ら害はなく、人から非難されることはない
これは例えれば昼勤めて夜は休むようなものだ

反対に、官位があがるにつれて金に任せてぜいたくに暮らし
退職してから倹約生活をするんでは、昼は休んで夜働くようなものだ
昇進したときに遊び楽しめば誰でも羨ましがり、ねたまれるであろうことは間違いないことだ

■第二百二十四夜 退職したら消費を切りつめよ

ある藩の某氏が江戸詰めで高い職に就いていたが
免職で帰郷することになったので、ワシは諭してやったのだ

「あんたのこれまでのぜいたくぶりは職務上のこともあったので仕方がないが
帰郷にあたっては、全部身分不相応のものばかりであるから
すべて友人や出入りしている者に形見としてくれてやって
普段着と寝間着以外何一つ持たずに国へ帰ることだ
これこそがおごりを遠ざけてぜいたくを断つ秘伝であって
そうしないと、あんたのみならず妻子や世話をしている者たちまでしみ込んだ
ぜいたく癖は決して改められることなく
あんたの家がしまいには滅亡してしまうことは明らかなのだ」

しかし、彼はワシの言うことを聞かず、逆に一品も残さず船に積んで持ち帰り
これらの品を売って生活を立て、ついには売り果たしてしまい
言葉では言えないほどの困窮におちいってしまったのだ
ぜいたくに馴れてしまい、自分ではぜいたくだということがわからなかったがためで
まことに嘆かわしいことだ


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ここまでが、人の巻 永く栄える法 二、倹と分度

分不相応のぜいたくは身を滅ぼします、当然ですね
一方では、頑張ったご褒美としてささやかな幸せを求めるのが人間でもあります
そこで大事なのが、分度ということなのでしょう

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第二百十四夜~第二百十九夜

■第二百十四夜 倹なれば滅びず

ぜいたくは不徳の源泉となって、滅亡のもとになるのだ
なぜなら、ぜいたくしたいと思うと利益をむさぼる心が増長し
慈善の心が薄らぎ、欲が深くなってケチになり
知らず知らず仕事のやり方も不正になっていき
ついには禍を生ずるに至るものだ

また、何事も習慣が性質のようになってしまい、慣れて平常なことになってしまうと
つまらない、仕方のないものものになってしまう
遊楽に馴れてしまうと面白くもなくなり、甘いものに馴れると甘いものはなくなってしまう
これでは自分で自分の喜びや楽しみを減らしてしまっているようなものだ
毎日働いている者にとって、休日は楽しみなものだし、盆や正月は格別だ
この道理をよく知って滅亡のもとを断ち切ることが大切なのだ

その上で若い者は、酒やたばこを飲むのを控え、酒好きたばこ好きにならぬよう努めるべきだ
中毒にでもなったら一生の大損になるのだから、よくつつしまなくてはならぬ

■第二百十五夜 無用のものを切り捨てる

盆栽の松の手入れが悪くて枯れそうになったとする
これをどうしようかというので、「なぜ枝を伐らないのか?」と言ったら
「このままでも枯れそうなのに、どうして枝を伐るのか?」と言う
しかし、無用の枝葉を伐って根を枯らさないようにするしか、盆栽を保つ道はないのだ

人の財産もそれぞれ一つの盆栽の鉢なのだ
暮らしが不足してきたら、すぐに枝葉を伐り捨てるしかないのだ
このときに、これは先祖代々のしきたりだとか、これは家風だからとか
これは代々特に大事にしていた品物だからなどといって、無用の枝葉を残してはならぬ
それをやると、たちまち枯気がつくもので、枯気づいてから慌てて枝葉を伐っても遅いのだ

■第二百十六夜 盆栽の松

人の財産には、おおよそ限度というものがあるのだ

たとえれば鉢植えの松のようなもので、鉢の大小によって松にも大小がある
新芽を伸び放題にすればたちまち枯れそうになるであろう
毎年新芽をつみ、枝をすかしてこそ美しく栄えるものなのだ

この道理を知らずに、春は遊山行楽だと言って新芽を伸ばし
秋は月見だと言って新芽を伸ばし、やむを得ない交際だと言っては枝を出し
親類の付き合いだと言っては枝を伸ばして
枝葉が次第に増えていくのを伐り捨てないでおくと
鉢の大きさの限度を忘れて分外に伸びすぎて、財産である松の根は次第に衰え
ついには枯れ果ててしまうものなのだ

だからこそ、その鉢の大きさにふさわしい枝葉を残し
不相応の枝葉を伐り捨ててすかしてやることが
財産管理の上で最も肝要なことなのだ

■第二百十七夜 財産維持の心得

木を植えかえる場合、根を伐れば、枝葉も必ず伐りすかさねばいけない
根が少なくなり地中の水分養分を吸う力が少なくなれば枯れてしまうので
枝を伐って根の力に釣り合うようにしなくてはいけないのだ

人の財産も同じで、例えば働き手が欠けたり、田畑などが少なくなったときは
予算を組みなおして、大いに生活を切り詰めることが重要なのだ
稼ぐ人が少なくなったのに、生活が同じ状態では
財産が日々減ってついには滅亡してしまうのは明らかなことだ

■第二百十八夜 富家の子のこころがまえ

ある門人が、若気の至りで持ってるものを質に入れて、金を使い果たしてしまった
その兄が、質入れ品を受け出して本人に戻そうとしたので、ワシは諭してやったのだ

「彼は富家の子で、ほんらい生涯質入れなどすべき者ではない
今回の件はふとどき至極だが、心得違いだから仕方ない
ただし、今後改めようとするのであれば、買い戻した品は渡さずに放っておけ
一日でも質屋の手にかかったものは一切身につけないという気持ちがなければ
これから一生やっていけないぞ」

「誤って質入れし、あらためて受け出すのは貧家の子のやることであって
彼はありがたいことに富家に生まれ、大徳をもった大切な身なのだ
過ちがわかったらただちに改め、悪いと思ったらすぐ手を引くことが大切なのだ」

「質入れしたものは二度と身につけない気概を持ち
生まれながらの富家の大徳を大切に考え、これを失わないように勤め
悪友に貸した金も同様に捨ててしまい、縁を切り、悪友に近づかぬようにすることだ
彼は、一生安穏で財宝は自然に集まり、困った人々を救ってやれる大徳を
生まれながらに備えている者であるから、よくこの道理を諭してやりなさい」

■第二百十九夜 とどまる処を知る

世の人が、富貴を求めてとどまることを知らないのは、凡人共通の悪い癖なのだ
そのためにかえって富貴を長く保つことができないのだ

日本という国は日本人のとどまる処であり
村は、その村人のとどまる処である
千石とれる村で家が百戸あれば、一戸は十石にあたる
これが天命というもので、この十石がとどまるべき処となるのだ
それを、先祖のお陰で百石ももったりしている者は、まことにありがたいことではないか
それにもかかわらず、とどまる処を知らず
さらに際限なく田畑を買い集めようというのは最もあさましいことなのだ

例えば山の頂に登って、なお登ろうというようなものだ
自分が絶頂にいて下を見れば、他の者はみな眼下にある
目下の者に憐み恵んでやるのが当然のことだろう
そういう天命をもっている富者でありながら、なお自分だけ儲けようとするなら
下の者だって我慢できずに貪欲にならざるを得ず
もし上下で利を争えば、奪いつくさないと満足できないようなことになってしまうのだ

また、海浜の者が山林の者をうらやみ、山の猟師が海の漁師をうらやむなどは最も愚かなことだ
海には海の良さ、山には山の良さがあるものなのだ
それぞれ自分の天命に安んじて、そのほかのことは願うものではないのだ


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とどまるところ≒引き際という意味ではギャンブルがまさにそうですな~
「あの時点で止めていれば」パチンコで何度後悔したことでしょうか…(T_T)

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第二百八夜~二百十三夜

人の巻 永く栄える法

二、倹と分度

■第二百八夜 勤・倹・譲を兼ね行う

ワシのやり方では、勤・倹・譲の三つが大切だ

勤は、衣食住関係のものを一生懸命作りだすことで
倹は、そのつくりだしたものを無駄にしないことで
譲は、これらをほかに譲り及ぼすことをいうのだ

さてこの譲にはいろんな意味がある
今年のものを来年のために蓄えるのも譲であるし
子孫や親せきに譲ったり、郷里や国家に譲渡するのも譲なのだ

また、勤・倹・譲は鼎(かなえ:古代中国で使われた三本足の鉄釜)の三本足のようなもので
必ずこの三つは兼ね行わなければならぬのだ

■第二百九夜 少年時の体験から救荒を語る

ワシは不幸にも、十四歳で父親を、十六歳で母親を亡くし
また洪水によって所有していた土地もすべて流出してしまい
少年のころの貧乏の苦しみや辛さが、骨身にしみこんで今でも忘れることができない

そこで、なんとかして世を救い国を富まし
同じようにつらい状況にいる者を助けてやりたいと思い勉強したのだ
そしてはからずも、天保年間に二度の大飢饉に遭遇したので
心を砕き、身を粉にして、この飢饉を救おうと努力したのだ

その方法は、天候が悪く凶先になりそうだと予測したその日から
村一同申し合わせて勤倹を行い飲酒を禁じ、飢饉の準備に専念させたのだ
具体的には、空き地を開墾し、木綿畑をつぶし
じゃがいも、そば、菜種、大根、かぶらなど食料になるものを蒔き
また早稲を刈り取り、乾田は耕して麦を蒔かせるなどした

このように、その土地土地で油断なく努力さえすれば、食料は確保できるものなのだ
凶作の兆しがあったら、注意深く食料を求める工夫を尽くさねばならぬのだ

■第二百十夜 なぜ倹約をするのか

世の中は一見無事のように見えても、変事がないとは言い切れない
変事は恐ろしいものだが、これを補う道を講じておきさえすれば
変事がなかったと同じことなのだ

三年の蓄えがなければ国とは言えないという
また国に兵隊があっても、武具や軍用金がなければ何もできない
これは国のことだけを言うものではなく、万事余裕がなければ家を保持できないものなのだ

世間ではワシが倹約ばかり説いて金をためることに夢中だと言うようだが
決して倹約ばかりを説いているのではなく、変事に備えよと説いているのだ
またワシは金を積むことに専念しているわけではなく
世を救い世を開くため必要な金を準備しろとすすめているだけなのだ

■第二百十一夜 倹約も先んぜざれば用をなさず

どれほど努力して倹約しても、年の暮れに差し支えるようではだめなのだ
先んずれば人を制し、後れれば人に制せられるというが
倹約も先手を打たないと役に立たないのだ

例えば、千円の収入があったものが九百円の収入に減ると
まず一年間は他所からの借金で暮らすようになる
よって収入は八百円に減ってしまう
これで慌てて倹約し九百円で暮らすことにするが
そこでまた赤字になり収入は七百円になってしまう
年々このように後手後手にまわり、労して功なくついに滅亡してしまうのだ
自分は不運だなどと言うが、不運なのではなく、後手になるから借金から逃れられなかったのだ
これはただ、先んずるのと後れるのとの違いだけなのだ

千円の収入が九百円に減った時、すぐに八百円の生活に引き下げて
さらに八百円の収入に減ったらただちに七百円の生活に切り詰めるべきなのだ

たとえば、治りにくい腫れ物ができたならば、手でも足でも断然切り捨てるべきなのだ
ぐずぐずしたり、一時逃れをしたりしてるとついには死に至り
後悔しても追いつかぬことになってしまうものなのだ

■第二百十二夜 無用のものを求めない

衣服は寒さをしのげれば十分で
食物は飢えをしのぐだけで良いのであって
それ以上は無用のことなのだ

最低限必要な衣食を常に備えておく道こそ、人道のおおもとであり、政道の本源なのだ
ワシは若いころから、食は飢えをしのぎ、衣は寒をしのげばそれで十分だと考えてやってきた
ただこの覚悟一つで今日まできたのだ

■第二百十三夜 安全のお守り

ある者が旅に出るというので、ワシは安全のお守りと言って歌をおくっってやった
「飯と汁 木綿着物は 身を助く その余はわれを せむるのみなり」
身の安全を願うなら、この歌を守ることだ

ひとたび変事の時には、飯と汁と木綿着物のほかに、自分の味方になるものはないのだ
これ以外のものはみなわが敵だと思って、我が身に入ってくることを警戒すべきなのだ

これくらいは、と言いつつ自分の贅沢を大目にみて、人は身を誤るものなのだ
はじめは害がないと思っていても、年がたつ間に知らず知らず我が身の敵となって
後悔しても時すでに遅しということになりかねないのだ

つまり、これくらいのことは、と自分を許してしまうことは
猪や鹿の足跡のように隠すことができずに
ついにはわが足跡のために猟師に撃たれてしまうのと同じことなのだ


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そうはいっても、無駄こそ人生だとも私は思うのですが…
今のこの世を翁が見たら何といわれるでしょうか?

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第二百三夜~第二百七夜

■第二百三夜 自己を知る者

下館藩に高木権兵衛という者がいた
貸付組合による無利息貸付金の投票の際、高木は投票用紙に
「自分は不幸で藩一番の借金もちだが、人間が確かだとも自負している
なので、自分で自分には投票できないので、鈴木郡助に投票する」と書いたことがあった

その後何年か後、高木は藩の家老となり、鈴木は代官になった
これを知ってワシは、高木という者が、「藩中第一の確かな者」と書いたのに恥じず
「なので鈴木郡助」と書いたのにも恥じない、自分をよく知る者だと感じたのだ

■第二百四夜 人は用い方しだい

山林の調査で山に入った時、芯の曲がった材木があったのをみて説教したことがある

木の芯というのはいわゆる天性なのだ
天性はこのように曲がっているが、曲がった内側に肉が多くつき、外のほうは少なくつき
曲がったのを自然になおしながら生長するにしたがってだいたいまっすぐな木になるのだ

同じように、人間も世のしきたりに馴れながら、生まれつきの天性をあらわさないものだ
だから、木の芯を出すと必ずそり曲がってしまうから芯を出さないように材木をとるように
人を用いるにも天性を露出させないようにすれば、世の中みんな役に立つようになるのだ

天性をあらわさないようにするというのは
こびへつらう者にはへつらうことをさせないようにする
悪賢い物には悪さを出させないようにするなどして、うまく使うことだ

また材木は、芯を出さずにまっすぐなものは柱とし、曲がったものは梁にし
太いのは土台に、細いのは桁に、美しいのは造作の材料に、と
すべてうまく使えば捨てるものは何もないのだ
人を用いるにもこのようにできれば統率者としての才能があるということだ

■第二百五夜 獅子舞の歌

ある若い門人がこんな古歌を口ずさんでおった
「笛吹かず 太鼓叩かず 獅子舞の 後脚になる 胸の安さよ」
これを聞いてワシは怒り説教してやったのだ

「この歌は、大きな才能をもったものが立派にそれをやり遂げ
これを次の代の者に譲ったときの心の内をあらわしたもので
それをお前のような若造が口ずさむのはもってのほかだ
お前は、笛を吹き太鼓を叩き、舞ってくれる人がいるから
自分のような者でも後脚になって世を渡ることができるのであって
誠にありがたいという歌を詠まないといけない身分なのだ」

「人の道というのは、親の養育を受けて成長し、自分が親となったら子を養育し
また先生の教えを受けて勉強し、そして子弟をおしえるようになるというように
人のお世話になる一方で、他人の世話をするものなのだ」

「ところが、この歌は煎じ詰めれば、受けず施さずということになる
『論語』では、幼時から素直でなく、成長しても世間の役に立たず、老年になっても死なないのは
社会にとって賊に等しいとさえ言っているのだ」

「前脚になって舞う者がなければどうして後脚になることができようか
上に文武百官がいて政治がうまくいっているからこそ、皆が安楽に生活できるのだ
このように国の恩徳を受けながらこの歌のような寝言を言うのは恩を忘れたからなのだ」

■第二百六夜 許可なくよその草を刈るのはよくない

ワシのところに出入りしている者が
「真岡と久下田の間の公道は幅が11間と広いそうなので
米を運んだ帰り道に道端の草を家畜のえさに刈り取ってこようと思う」
と言うので、ワシは諭してやった

「他人が来てお前の屋敷内の竹木を取ったら、お前は黙っているか?
広いからと言って勝手に刈り取るのは道理に外れているのだ」

「仮に帳面より実際の面積が広いからと言っても
その所有者が草を刈っても良いと言わない限り
こちらが勝手に草刈りしても差し支えあるまいと思うのは悪いことなのだ」

■第二百七夜 男は女大学を読むな

貝原益軒の著わした『女大学』は、女性の教訓として至れり尽くせりで婦道の至宝だ
書いてある通りでは女性が人として立つ瀬がないように見えて
女性を押さえつけ過ぎてやしないかとの批判もあるが
これは女性のための教訓書であって、女性がこの道理を良く学べば
整わない家はなくなるのだ

しかし、これを男性が読んで、婦道はこういうものだと思ったら大間違いなのだ
教えというものは、物事によってそれぞれ違うものなのだ
君主には君主の教えがあり、人民には人民の教えがあり
君主は人民のための教えを学んではならず、逆もまたしかりなのだ

親も、子も、夫婦も、兄弟もみな同じであって
おのおの自分の道を間違わなければ、世の中はよく治まっていくものなのだ
教訓というものは、例えれば病気に対する薬の処方のようなもので
その病気に合ったものを施すものなのだ


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「先輩からもらったものは後輩に返せ」
こうして連綿と続いていくものなのです…

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